江戸時代は260年続き、日本文化を大きく発展させました。
日本のソウルフード・寿司、ソウルフラワー・ソメイヨシノ(桜)、いずれも江戸時代に誕生しました。
現在の日本文化にとっても重要なこの江戸時代は、「徳川家」が将軍として君臨、統治していました。
そもそもこの「徳川」という姓、初代家康が創って名乗り始めました。
先祖代々続く姓を変更して名乗る大名もそうそういなかったと思います。
今の社会で例えれば、創業100年を超える家族経営企業の社長が社名を変更するようなものでしょうか。
なぜ家康は自分の姓を変えたのでしょう?
調べてみました。
元の姓は「松平」
家康が生まれたのは「松平(まつだいら)」という三河国(今の愛知県東部)の一豪族の家でした。
三河の豪族たちは東西を強力な勢力に挟まれ、どちらか一方の勢力に味方する道を選びます。
松平の当主である家康の父・広忠は、領土を保全するため、一方の強大勢力である今川氏に大事な跡取り息子・家康を人質に差し出します。
(昔の武将は幼名などで何度も名前が変わりますが、家康で統一します。)
人質生活の間に父・広忠が死去、主人不在となった松平の領土は、保護勢力である今川氏の好きなようにされてしまいます。
家康は成人後、織田信長と結び、保護勢力であった今川と対立し、松平の元々の領土を取り返し、さらに三河国全体というそれまで以上の領土を支配下に置きました。
目的は肩書きが欲しかった?
家康は天皇から「三河守」という官位(朝廷からもらう肩書き)をもらいますが、この官位をもらう少し前、もしくはほぼ同時に「徳川」という姓を名乗り始めています。
この官位叙任(官位を授かること)と「徳川」には何か関係がありそうですね!
そもそもなぜ「三河守」が欲しかったのでしょう?
おそらく、三河国を治めることの正当性が欲しかったのだと思います。
上記のとおり、三河の一部を支配しているに過ぎなかった松平が、織田信長と同盟を結び、三河国全体を支配できるようになりました。
しかしこれは、有力になった勢力が勝手に領有を主張しているだけに過ぎません。
「戦国時代とはそういうもの」と言ってしまえばそれまでですが、それでも「〇〇にちゃんと認められてる!」と堂々と言えるお墨付きが欲しいのです。
西洋の神様・日本の天皇
西洋の王様も同じ発想で、王様が偉いのは「神様に王としての権利(王権)を授かったから偉いんだ!」と、「王権神授説」という考え方を編み出しています。
後ろめたさがなければ「俺は偉いから偉い!」といばっていれば良いのですが、「神様に認められた」という理由が必要だったのです。
だから、宗教を牛耳っていたカトリックは当時、王様より強かったんですね!
カトリックから破門(「お前はカトリックではない!」と宣言)された王様がローマ法皇に謝罪して許してもらったというぐらい、宗教は強いのです!
話を東洋に戻しますと、西洋の「神」のように、日本の家康は「天皇から認められた」というお墨付きが欲しくて、三河守を欲します。支配したばかりで盤石ではないから肩書き固執していたのでしょう。
ちなみに、家康は「名門」と言われる家柄が好きだったようです。
三河に「吉良(きら)」という名門がいました。
「三河守護」を務めていた家柄で、本来であれば三河で一番”偉い”家でした。
「〇〇守護」というのは室町幕府からもらう役職で、室町幕府からその国の支配を任された家が任じられていました。天皇からもらう「〇〇守」とは違うものです。
三河で一番偉いはずの吉良氏は、戦国時代の下剋上の流れのなかで没落していきます。
天下を取った家康は、出身地・三河の守護だった吉良氏を助け、儀礼などを司る幕府の役職(「高家」というらしいです)に取り立て、吉良家を復興させました。
この吉良氏、あの赤穂浪士で打ち入られたあの吉良上野介の吉良氏です。
家康が名門好きでなかったら、あの「赤穂四十七士」の義伝も誕生しなかったかもしれません。
渋る天皇を納得させるため画策?
「三河守に任じて欲しい」という家康の願いでしたが、当時の天皇・正親町天皇はこの申請を通すことを渋ります。理由は「前例がない!」からでした。
現代でもお役所などは「前例がない」となかなかGOサインを出しません。逆に言えば「前例がある」と話が早かったりします。(役所では何も新しいことはできないということでしょうか・・・)
昔も同じで「前例がない」というのは致命的な欠陥だったりします。
正親町天皇が渋っている「前例がない」というのはどういうことでしょう?
「本姓」が問題?
「前例がない」という話をするためには「本姓」について説明する必要があります。
当時の日本の武家には、普段名乗っている名前とは別に、天皇がいる朝廷に対して名乗っている「本姓」というものがありました。
例えば、戦国時代を代表する大名・武田信玄の姓は「武田」です。
ところが武田信玄が、天皇がいる朝廷に対して名乗る時は「源晴信(みなもとのはるのぶ)」と名乗るのです。
信玄は法名(お坊さんとしての名前)なので、本名は晴信です。(これは本姓とは別の話)
そして、武田家の「本姓」は「源」なのです。
同様に、家康の盟友・織田信長は「平信長(たいらののぶなが)」が朝廷に名乗る時の正式名でした。
歴史の授業で、鎌倉時代が始まるぐらいまでは「〇〇の〇〇」なのに、途中から「の」が消える現象を不思議に思ったことはありませんか?「ふじわらの〇〇」、「たいらの〇〇」、「みなもとの〇〇」など。これは本姓だから「の」が付くのです。
天皇からもらった姓が「本姓」、それ以外、例えば自分で名乗り始めたなどは「本姓ではない」のです。
武士の時代は、土地の領有を主張して、土地の名前を姓として名乗り始めることが起きていました。
こうしたことから、普段名乗る姓と、正式の姓である「本姓」が異なる現象が生まれました。
ちなみに、秀吉は天皇から「豊臣」の姓をもらいました。なので、一昔前は「とよとみ ひでよし」と習うところ、現在は「とよとみの ひでよし」と読む(もしくはカッコ書きで「の」を記載する)ように変更になっているようです。
源氏だからいけなかった?
松平氏は「新田氏の流れを汲む清和源氏」という流れを汲む家柄でした。「この家柄が三河守に就いた前例はない」ということで、正親町天皇は叙任を渋ったそうです。
そこで家康は考えました。
松平の先祖には、「得川」という一族もありました。この得川氏の一部の本姓が「藤原」になったという先例を発見しました。
「一族の得川を名乗って本姓を藤原ということにしよう!漢字は縁起の良い「徳」に変えて「徳川」と名乗ろう!」という具合に改姓しました。
後に天下を取り、江戸幕府の礎を築く「徳川家康」がこうして誕生しました。
ちなみにその後、家康は征夷大将軍に任じられます。
征夷大将軍には源氏しかなることができません!
藤原と源を都合の良いように使い分けていますね!
もっとも、三河守叙任に渋った朝廷、征夷大将軍に任じる時は渋りようがなかったでしょうね。
この時の徳川家康は日本で一番の権力者。
「いやあなたあの時、藤原と名乗って官位授かったでしょうが」と文句を言う人がいれば、この世から姿が消えたことでしょう・・・。
選ばれし息子のみに与えた「徳川」
徳川姓を名乗り始めた家康でしたが、松平の一族全員が「徳川」になったわけではありません。
最初に徳川を名乗ったのは家康ただ一人。
家康には息子が11人いましたが、特定の息子だけに「徳川」の姓を与えました。
徳川の姓を与えられたのは、
・三男・秀忠(将軍家)
・九男・義直(尾張家)
・十男・頼宣(紀伊家)
・十一男・頼房(水戸家)
将軍家と御三家です。
一門(一族)の中でも徳川を名乗るのは特別な意味を持ちました。
「徳川」はめちゃくちゃ偉い存在なのです!
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