「リベラル・アーツ(liberal arts)」という言葉があります。日本語で「教養」と訳されます。
リベラル・アーツという言葉を分解してみると、前半の「リベラル(liberal)」は「自由」という意味、後半の「アーツ(arts)」は「学芸」とか「芸術」とかという意味になります。「自由のための学芸」!何と良い響きでしょう!
自由人を目指す(つまり今は非自由人の)私はリベラル・アーツ、教養を必死に学ぶことにします( ̄ー ̄)ゞ
さてさて、ではリベラル・アーツとは何なのか?
教養を学ぶ手始めにリベラル・アーツ(教養)について考えます。
リベラルアーツの発祥は古代ギリシャ
リベラルアーツの考え方は古代ギリシャで誕生します。
当時のギリシャには奴隷制度がありました。当時のギリシャ人は、「労働は奴隷のすること、労働に縛られているということは奴隷であるということ」と考えていました。
なるほど!会社に縛られる我々は奴隷状態ということですな( ̄∀ ̄)。納得です!
労働は奴隷の役目ですが、ではこの非自由人たる奴隷と自由人である市民を分けるのは何なのか?
それがリベラル・アーツ(教養)の有無です。
民主主義を作り哲学を愛した古代ギリシャの自由人
自ら考え、自ら行動するギリシャ市民は、支配者も追い出してしまいました。
当時は王が国を統治するのが当たり前の時代です。ギリシャにも「僭主」という王のような存在がいましたが、市民はこれを追い出し、以後「民主主義」という形態で国を運営していきました。
また自由人として考え続けるギリシャからギリシャ哲学が発展しました。
奴隷は機械。責任は取れない。
自由人たる市民は自分の意思で考え、行動する存在です。もちろん、自分の行動に対する結果もすべて自分が責任を取ることになります(それが良いことでも悪いことでも)。
奴隷は主人から命ぜられた仕事を盲目的に黙々と粛々と疑問を挟むことなく行います。
その結果に責任は取りません。取れませんと言った方が適切でしょうか。
奴隷は機械のような存在です。機械が誤作動を起こして物を壊したり、人を傷つけても、機械に責任はありません。状況によりますが、欠陥品であれば作った人(会社)や販売した人(会社)、適切な方法で使用していなかったりすれば使用者・所有者が責任を取ることになります。
企業の組織的な不正を考えると社員は・・・
たまに、組織ぐるみでの不正が問題になることがあります。三○電機や○芝など、検査不正や会計不正など不正の種類は違えど組織的「犯行」であることに変わりはありません。不正や不正隠しに加担していた従業員もいたでしょう。納得していたかはともかく、会社の方針に従っていたということです。
これも、現代日本の会社員が「自由人」ではないということの一つの事例でしょう。
生活がかかっているので会社に逆らえないという事情もあるでしょう。
経済的自立とリベラル・アーツの修養、この二つは自由人になるために必要な「車の両輪」なのかもしれません。
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