ユリウス・カエサルと織田信長について考える(その1)

歴史

ユリウス・カエサルと織田信長という人物について学んでいると、「似ているな」と感じました。
古代ローマと日本の戦国、時も場所も全く違う2人を似ていると感じるのは、その生涯のストーリーです。

彼らはそれまでの古い秩序を破壊し、改革を推し進めて新しい時代を作ろうとし、その結果、反対派に殺されます。
どんなことをしても反対する人はいますが、彼らのような急激な変革には、それだけ強く反対する者が現れるのも自然なことなのだと思います。

彼らの死後、継承者によりゆるやかな改革が推し進められますが、その点も「似ている」と言えるのではないでしょうか。

2人の生涯を振り返ってみます。
今回は古代ローマ、ユリウス・カエサルについてです。

ユリウス・カエサル

ローマの時代は大きく「王政期」、「共和政期」、「帝政期」に分かれますが、ユリウス・カエサルは共和政期の末期に生まれました。

軍人として成果を上げたユリウス・カエサルは、ポンペイウスとクラッススという2人の実力者と組み、元老院に対抗する勢力を築きます。いわゆる第一回三頭政治です(第二回三頭政治はカエサルの死後、オクタウィアヌスらが結成)。

三者の利害の一致により成立していた三頭政治も、その一角を担っていたクラッススがパルティアとの戦争で戦死し、瓦解します。
ポンペイウスの元に嫁いでいたカエサルの娘・ユリアが亡くなったこともあり、次第にカエサルとポンペイウスは対立するようになり、2人はローマの軍勢を二分しての内戦を繰り広げます。

この内戦に勝利したカエサルにライバルはいなくなり、彼は共和政改革に着手します。

共和政ローマの独裁への拒否反応

共和政ローマは王を追放して成立しました。そのため、元老院など多くのローマ人は独裁を酷く嫌いました。
政治の責任者である執政官(コンスル)も、独裁を避けるため同時に2人が任命され、任期も1年と決まっていました。非常事態に限定して独裁官という役職を設けて1人選出しましたが、任期も半年と決められていました。それだけ、共和政期のローマは独裁に対する拒否反応を持っていたのです。

しかし、ローマの支配領域が拡大するにつれ、議会のような集団指導による統治は難しくなっていきます。

カエサルの改革と暗殺

カエサルは共和政の改革を推し進めていきます。
元老院の機能を低下させる政策を実施すると同時に、自らは終身独裁官に就任、期間限定とされていた独裁官の権力を長期にわたって行使する力を得ます。

こうして権力を自分1人に集中させ、後の帝政に至る道筋を作ります。
絶対的な支配権を得たカエサルですが、護衛を付けることなく元老院に入り、複数の元老院議員の手で殺されることになりました。

カエサルの死後

元老院に嫌われていたカエサルですが、戦場で活躍したカエサルは市民にとっては英雄でした。
市民は、彼を暗殺という陰湿な手法で殺した元老院に対して怒り、暗殺者たちをローマから追放しました。

カエサルの死後は、彼の指名した後継者・オクタウィアヌスがその路線を引き継ぎ、ローマを帝政に導いていきました。彼が初代皇帝・アウグストゥスです。「アウグストゥス」は「尊厳ある者」という元老院から贈られた尊称です。

アウグストゥスは、先代カエサルと同じ轍を踏まぬよう、元老院から独裁官に就任するよう要請されてもそれを固辞、その代わり、個別の多くの肩書きを付与することで実質的な「皇帝」となりました。

その称号の1つ、インペラトルという軍司令官に対する称号が、皇帝を意味する英語のエンペラー(emperor)の語源となりました。


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