”宮城事件” 終戦前夜、強硬派が皇居占拠!?

近現代史

1945年8月15日、日本政府はラジオ放送で全国民に「敗戦」を告げました。
天皇陛下の声を放送したいわゆる「玉音放送」です。

アメリカなど連合国への降伏を公表したこの日、8月15日は「終戦記念日」となっています。

このラジオ放送が行われたのは8月15日の正午でしたが、実はこの前夜、放送阻止・戦争継続を訴える過激派将校たちにより皇居が占拠されるクーデター未遂事件がありました。

それが「宮城(きゅうじょう)事件」です。
「終戦反対事件」などとも呼ばれます。

先の大戦について、
「馬鹿な戦争をもっと早く終わらせられなかったのか?」
「もっと早く終戦を迎えていたら2発の原爆投下で尊い多くの犠牲を出さなくてよかったのではないか?」
と感じている方も多いと思います。

実は原爆投下後、あのタイミングですら「終戦」に至る道は険しかったのです。
この話は、半藤一利さんの著作、「日本のいちばん長い日」で詳しくまとめられています。

これを原作とした同名の映画も公開されています。

「宮城事件」とは一体なんだったのでしょう?

結論を出せない「最高戦争指導会議」

戦時中、「最高戦争指導会議」というものがありました。
政府と軍のトップにより構成される会議で、実質的な戦時中の最高意思決定機関です。

構成員の肩書きと終戦時の現職者はそれぞれ、

・総理大臣 鈴木 寛太郎 (すずき かんたろう)
・外務大臣 東郷 茂徳 (とうごう しげのり)
・陸軍大臣 阿南 惟幾 (あなみ これちか)
・海軍大臣 米内 光政 (よない みつまさ)
・参謀総長 梅津 美治郎 (うめづ よしじろう)
・軍令部総長 豊田 副武 (とよだ そえむ)

です。

アメリカなどの連合国から突きつけられた降伏勧告、いわゆる「ポツダム宣言」を突きつけられた日本政府は、これを受諾するか否か”最高戦争指導会議”で話し合いました。

8月13日に開かれた最高戦争指導会議では結論が出ませんでした。
意見が二つに割れたのです。

「ポツダム宣言受諾」の方向では意見は一致しているものの、アメリカなどの連合国からの条件に”天皇の身の保全”と”天皇制保持の確約”という、いわゆる「国体護持」についての条件が曖昧だったためです。

そこで、阿南陸軍大臣・梅津参謀総長・豊田軍令部総長の軍人3名は、「再度問い合わせるべき」という”再照会論”を主張しました。

一方、鈴木総理大臣と東郷外務大臣の文官2名と、米内光政海軍大臣の3名は「ここで再照会などしたら、この話自体がご破産になってしまう」という”即時受諾論”を主張しました。

”再照会論派”にとっては、”国体護持”こそすべてであり、それが叶わぬなら「”一億総玉砕”も致し方なし!」という意見です。

この考え方は当時の軍人の主流派の考えと言えるでしょう。
一方、”即時受諾論派”は1日遅れれば取り返しのつかないことになるという思いがありました。

日本に戦う力がなくなった戦争末期、突如ソ連が満州・朝鮮・樺太に攻め寄せてきました。
このまま結論を長引かせれば、すぐに”北海道”まで攻め寄せてくるのは目に見えていました。

「相手がアメリカのうちになんとか話をつけねばならない」
この思いが強かったのです。

そもそも当時のソ連は日本と「日ソ不可侵条約」を結んでいましたが、これを破って一方的に侵攻を開始しました。
日本が負けそうと見て、”火事場泥棒”のように条約を破って当時の日本領に流入してきたのです。

戦争であっても”捕虜”は人間らしく扱わなければならないという国際条約があります。
ソ連はその国際条約も無視して日本人捕虜を”強制労働”に従事させます。

さらに現地に住んでいた”一般人”も捕まえて強制労働に従事させました。
いわゆる「シベリア抑留」です。

ソ連(=ロシア)の”ルール無視”、”人権無視”というスタイルは歴史的に見ても一貫していると思います。

このような状況を考えると、”即時受諾論派”の立場から見れば、結論を先送りする”再照会論”には何がなんでも賛成できません。

”再照会論派”と”即時受諾論派”は3対3のまま、一刻を争う自体の中でも”最高戦争指導会議”では意見がまとまりません。

そこで鈴木寛太郎総理大臣は前例のない”秘策”を用いることにしました。
それは、天皇陛下のご臨席を賜る「御前会議」で決断を下すというものでした。

終戦へのご聖断

8月14日に開かれた「御前会議」、鈴木首相は天皇陛下に、「先に開かれた最高戦争指導会議では結論が出なかった」旨を報告します。

天皇陛下はポツダム宣言の”回答受諾”を是としました。いわゆる「ご聖断」が下されたのです。
天皇陛下は、必要であれば国民に語りかけても良いし、マイクの前にも立つと述べられました。

そして、この日の夜、翌日正午に放送することになる「玉音放送」の録音が行われたのでした。

一部過激派将校による”決起”

”終戦”は決せられましたが、納得しない将校たちがいました。
彼らは玉音放送を阻止し、天皇陛下を”救う”ために皇居を占拠しようと画策します。

彼らは、「天皇陛下は命が惜しい重臣ども(総理大臣ら)に騙されて間違った決断を下そうとしている。」と主張しました。

天皇陛下を守る「近衛師団」というものがありました。
過激派将校たちは、近衛師団長・森 赳(もり たけし)中将に面会し、クーデターへの参加を要求しました。

森師団長がクーデターに賛同しないことを見てとると、過激派は森師団長を殺害、偽の師団長命令を発令して皇居を占拠してしまいました。

”玉音盤”奪取の失敗と近衛師団連隊長の不審感

”玉音放送”を阻止するため、クーデター派は”玉音盤”(天皇のお声が録音された録音盤のこと)を奪取するため全力で捜索しますが見つかりません。

”皇居”という特別な場所に不慣れなこと、宮中で働く”侍従”の服装が皆同じで誰が偉いのかわからず、キーパーソンを見定めることができなかったことなども捜索難航の一因だったでしょう。
(ちなみに軍人は階級章などで、見た目で相手の階級がわかります)。

”偽師団長命令”で近衛師団を動かしていたクーデター派でしたが、命令を受けていた近衛師団所属の連隊長も時間が経つにつれて不信感を募らせていきます。

クーデター派の説明に不審な点があったり、ことの重大さに反して師団長が姿を見せないことなどがあったためです。

”鎮圧”

クーデター派による偽命令で動いていた近衛師団でしたが、「森師団長が殺害された」ことと「命令は偽物であった」ことを知ると、クーデター派の影響からすぐに離れます。

頼りの近衛師団が真相を知り、「東部軍」という軍が鎮圧に動いたことで、クーデター派にもはや抵抗力はありませんでした。

こうして、戦争継続を主張するクーデター派による皇居を占拠した”宮城事件”は終わりました。
一時的とはいえ「皇居一時占拠」に加え、近衛師団長・森中将殺害という犠牲者もおり、とても小さい事件ではありません。

8月15日の終戦に至るまでに、最後の最後まで混乱があったということは、知っておくべき歴史の事実ではないでしょうか。

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