“桜田門外ノ変”、今の時代風に言えばテロ事件です。
1860年3月24日、時の大老・井伊直弼(いいなおすけ)が江戸城(今の皇居)の桜田門の外(今の霞ヶ関)で集団に襲われ、暗殺されました。享年44歳。
襲った集団は水戸藩から脱藩した浪士たちでした。
この事件は一人の”中年有力政治家が殺された”程度のものではありません。”日本という国がこの瞬間に変わった”と言えるできことです。まさに”その時歴史が動いた”のです。
なぜ事件が起き、事件前後で何が変わったのでしょう?
黒船来航がすべてのはじまり
ことの発端は、1853年、江戸湾に突如アメリカの艦隊が現れたことでした。”黒船来航”と呼ばれるものです。
ここから日本中が大騒ぎとなります。尊王攘夷を掲げて断固反対を唱え、条約締結に必要とされていた”天皇の勅許”(天皇の許可)を得られないまま、大老・井伊直弼は勝手に条約締結を断行してしまいました。
反対派はこれに猛抗議します。井伊直弼は強権を発動し、これに粛清で応じます。
”安政の大獄”です。
安政の大獄で不満が更に増大
幕府は尊王攘夷を掲げる人たちを次々に捕縛し、処刑(切腹や斬首)していきます。
この時殺された人の中には、長州の維新志士たちの師匠にあたる吉田松陰もいました。
水戸藩は中でも多くの人が処分され、重臣を含む多くの家臣も処刑されました。その処分は藩士に限らず、前の藩主である徳川斉昭やその息子で後に将軍となる徳川慶喜も蟄居(謹慎処分)にしました。
水戸藩の処分が多い理由
水戸藩では、”水戸学”という学問が発展しました。この水戸学の中心をなす考え方が”尊王攘夷”で、これが全国に広まって”明治維新”につながっていくのです。
水戸藩は、”尊王攘夷”の本家本元だけに、数多くの人たちが処分されました。
この時の安政の大獄やその後の内乱で多くの志士を亡くした水戸藩は、明治維新のきっかけをつくりながら明治政府で中心を担うことができませんでした。
明治政府を薩摩とともに支えた長州も、「本当に優秀な人は幕末に死んだ」というようなことも言われたりしますね。
強い粛清への反発となった”桜田門外ノ変”
強く押し込めばその反動があるものです。
迷惑をかけないよう脱藩(藩を離脱)した水戸藩からの脱藩浪士が、井伊直弼の暗殺計画を実行、井伊の行列を桜田門外で待ち伏せし、襲撃して殺害しました。
これで、それまでの流れがすべて変わりました。
井伊直弼の強いリーダーシップにより支えられた幕府も、その後、弱腰となり、尊王攘夷派の活動が活発化、歴史の中心は天皇のお膝元、京都に移動します。
人々の価値観が一つの事件で吹っ飛ぶ
幕末は井伊直弼の死により、大きく変わりました。公然と幕府を批判しても処罰しきれなくなります。幕府に不満分子を抑える力がないとみるや、もう誰にもこれを抑えることはできません。
京都は倒幕派と佐幕派(幕府を助ける勢力)の間で殺し合う場となりました(佐幕派の中では新撰組が有名ですね)。
2022年2月現在、未だ新型コロナウイルスは猛威をふるっていますが、これがきっかけで、時代が大きく転換するかもしれませんね。(今の対策が今後も残るなど)。
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