古代ローマには大きく分けて3つの時代区分があります。王政期・共和政期・帝政期です。
建国時はローマも他の多くの国と同様、王を戴く「王国」として国の歴史をスタートさせました。
しかし、王家への恨みが連なり、ある事件がきっかけでそれが爆発します。その事件こそ「ルクレティアの凌辱」と言われる王族が起こした人妻への強姦事件でした。
ローマはどのような経緯で王政から共和政に移行したのでしょうか?
エトルリア系のローマ王
ローマは初代ロムルス王が建国した国ですが、サビニの女性を誘拐してサビニと争ったあと、仲直りして1つの国に統合しました。その後の王は2代目から4代目まで「サビニ人→ローマ人→サビニ人」と交互に王位を継承していきました。
そして5代目から事件が起きる7代目まではエトルリア人が王となりました。エトルリアは当時のイタリア半島では先進的な文化を持ち、ローマはエトルリアの圧迫に屈したものと思われますが、先進文化を取り入れるため、甘んじて支配を受け入れていた側面もありました。
王家への不満
先進文化を持つエトルリアの支配を受けてきたローマ人ですが、7代目の王・タルクィニウスは市民を戦争や工事などに酷使、王家への不満がますます高まっていくこととなりました。
そんな中、王の息子・セクストゥスが人妻ルクレティアを強姦する事件が発生します。
王子の強姦事件
ある日、王子と複数の男たちが、酒の席で自分たちの妻を自慢しあい、誰の妻が一番貞淑で優れているかを競い合いました。酔った男たちは早速それを確かめるため、家に走りました。どの妻たちも旦那が留守の間に遊び呆けている中、コラティヌスの妻、ルクレティアだけは貞淑に機織りをしていました。
ルクレティアの話を聞いたセクストゥスはルクレティアに興味を持ちます。そして、夫のコラティヌスが出兵で留守の間にルクレティアの部屋に侵入します。抵抗するルクレティアを刃物で脅すセクストゥスでしたが、ルクレティアはそれにも屈しませんでした。しかし、セクストゥスが「拒めばお前を殺害後、裸の奴隷と並べて姦通の最中に殺されたように見せるぞ」と脅します。その恥辱にルクレティアは耐えることができず、彼の要求を受け入れる結果となりました。
ルクレティアの自殺
セクストゥスが立ち去った後、ルクレティアは実家の父親を呼び、出兵中の旦那に帰ってくるよう連絡します。そして、ことの顛末を語りました。語り終わった後、ルクレティアは持っていた短刀で自ら命を断ちました。
この話にローマ市民は、王家への怒りを爆発させます。立ち上がった市民は王家をローマから追放しました。その後、ローマは王を置かず、王の代わりに任期1年で2名選出となる指導者「執政官(コンスル)」を置き、共和政へと移行しました。
コメント